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熊野速玉大社(クマノハヤタマタイシャ)全国熊野神社総本宮 根本熊野大権現 (和歌山県新宮市)

世界遺産
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熊野速玉大社(クマノハヤタマタイシャ)

住所 〒647-0081 和歌山県新宮市新宮1番地

TEL 0735-22-2533

参拝時間 境内自由 日の出~日没(授与所は8~17時)(無休)

駐車場 あり(無料)

トイレ あり

【概要】
熊野速玉大社は、熊野三山のひとつで、熊野那智大社、熊野本宮大社と共に、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成しています。熊野速玉大社は、熊野三山を構成する神社の一つであり、熊野那智大社、熊野本宮大社と共に、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成しています。また、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。境内には、本殿や拝殿、幣殿などがあります。本殿は国宝に指定されています。また、拝殿や幣殿も重要文化財に指定されています。

【歴史】
神代の頃、熊野速玉大神と熊野夫須美大神が神倉山の磐座・ゴトビキ岩に降り立ち、祀られることとなりました。熊野速玉大神は熊野速玉大社で伊邪那岐神、熊野本宮大社で速玉之男とされ、熊野夫須美大神は伊邪那美神とされています。

景行天皇58年に現在地に遷座し、神倉山は神倉神社となり、元宮と呼ばれるようになりました。熊野速玉大社は新宮と呼ばれ、初めは3柱の神を祀りましたが、平安時代初めに12の社殿が建てられ、神仏習合が進みました。また、穂積氏が代々神職を務めています。

平安時代末期には皇族が熊野三山を訪れ、賑わいました。
明治時代には県社に列格しましたが、1883年に打ち上げ花火が原因で社殿が全焼しました。1915年に官幣大社に昇格し、1948年には神社本庁の別表神社に加列されました。1967年に社殿が再建されました。

2004年7月1日、熊野速玉大社は「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されました。これらの歴史から、熊野速玉大社は古代から現代まで、日本の信仰と文化の中心地として栄えてきたことがわかります。

【祭祀】
1月1日~1月4日:初詣・歳旦祭・元始祭・釿始祭
2月3日:節分祭(節分お焚き上げ神事)
2月6日:神倉神社御燈祭
2月7日:御燈祭奉祝祭
2月11日:紀元祭(神倉神社)
2月23日:天長祭
3月3日:桃の節句
4月3日:新宮神社例祭(さくら祭り)
5月8日:猿田彦神社、三宝荒神社例祭
6月30日:夏越の大祓式
7月14日:扇立祭・虫追い式並びに農業振興祭
8月15日:新宮市戦没者慰霊祭
10月15日:例大祭本殿大前の儀・神馬渡御式・お旅所神事
10月16日:神輿渡御式・御船祭・お旅所神事
11月3日:明治祭
11月15日:七五三祈祷
11月23日:新嘗祭
12月24日:煤払い神事
12月31日:大晦日大祓式・除夜祭・神符遷霊祭

【古神宝類】
熊野速玉大社には、1000点を超える古神宝類があり、これらは1955年6月22日に一括して国宝に指定されました。神宝とは、祭神のために作られた服飾や調度類を指します。これには、神服、蒔絵手箱、銅鏡、弓矢、染織用具などが含まれます。

平安時代以降、熊野新宮では33年ごとに遷宮が行われ、その都度新たな神宝が奉納されていました。しかし、1307年の社殿焼失後は復旧が進まず、1390年にようやく遷宮が行われました。現存する神宝の大部分は、この時に足利義満を中心とした幕府が製作・奉納したものです。

現存する古神宝類は、男神用・女神用の神服、蒔絵手箱、武器武具類、紡績具などに分類されます。

神服類には、男神用として袍、直衣、表袴、指貫などがあり、女神用として衵、単、唐衣、海賦裳などがあります。また、彩絵の檜扇も女神用のものです。

武器武具類は、男神である速玉神に奉納されたもので、鳥頸太刀、弓、平胡籙、唐鞍などがあります。これらは実戦用ではなく、儀仗用のものです。現存する鳥頸太刀は外装のみが残っており、刀身は1口は明治時代に紛失し、もう1口は第二次大戦後に連合国軍により接収されて所在不明となっています。

紡績具は女神用のもので、縳、苧笥、桛などがあります。これらは糸を撚るための道具や、糸を巻いておくためのものです。

蒔絵の手箱は、新宮の祭神十二所と旧摂社の阿須賀神社用に計13合調進されました。阿須賀神社への奉納分は第二次大戦後国有化され、現在は京都国立博物館所蔵となっています。また、1合の手箱(橘蒔絵手箱)は民間の所有となり、速玉大社に現存する手箱は11合です。各手箱には白銅鏡、鏡箱、歯黒箱、白粉箱、薫物箱、鑷、鋏などの内容品が残されています。地を梨子地とする手箱が8合、沃懸地とする手箱が3合あり、後者はより格の高い作りとなっています。

これらの古神宝類は、制作年代と由緒が明らかであり、南北朝時代の染織、漆工、金工などの工芸品の基準作例として重要です。また、現存する神宝類の詳細な記録が残されており、貴重な資料となっています。速玉大社に伝わる『熊野山新宮神宝目録』や『熊野山新宮御神宝内外御装束之事御調進造替之文目録』といった神宝目録には、各祭神に奉献された神宝の名称、材質、文様等が詳細に記載されており、現存の神宝類とも符合しています。

これらの古神宝類は、熊野三所と称される結宮(中御前)、速玉宮(西御前)、証誠殿への神宝奉納が、それぞれ禁裏(天皇)、仙洞(上皇)、室町殿(将軍)によって行われました。また、これらの手箱には本来天皇家の紋である桐が使用されており、足利家が禁裏から桐紋の使用を許されていたことがわかります。

1950年には、社殿の補修工事の費用に充てるために、一部の神宝が売却されることが検討されましたが、最終的にはこれらの神宝は保存されています。これらの古神宝類は、熊野新宮において大切に保管されており、その歴史的・文化的価値から、1955年(昭和30年)6月22日に一括して国宝に指定されました。

熊野新宮の古神宝類は、日本の古代から中世にかけての神道、神社文化、工芸技術を知る上で非常に重要な資料となっており、多くの研究者や歴史愛好家にとっても貴重な存在です。また、これらの神宝類は今後も継続的に保存・研究されることが期待されており、日本の歴史や文化遺産の理解に役立っていくことでしょう。

【梛の大樹】
梛の大樹(熊野速玉神社のナギ)は、国の天然記念物として1940年に指定されたナギの巨木です。樹高は約20m(17.6m)、幹周は6m(5m)で、推定樹齢は1,000年(850年)とされています。このナギの木は、国内最大のナギとされており、マキ科の常緑高木で神木として植樹されることが多いです。

梛の大樹は雄株であり、幹に分岐が見られることから、もとは数株であったとも考えられます。1159年に熊野三山造営奉行だった平重盛が手植えしたと伝えられています。ナギの実や枝は凪(波が穏やか)に通じることから護符とされています。

また、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されています。

【アクセス】
JR新宮駅よりバスで5分、徒歩15分
車で42号線を三重方面、新熊野大橋手前の速玉大社前信号を左折後約200m

【まとめ】
熊野信仰は、古代の人々が大自然の中で生きる過酷さを経験し、自然の驚異や恵みに感謝し畏れを抱くようになったことから始まりました。古代の人々は、災害も恵みも与える厳しくも温かい神を求め、熊野三山の神々が降り立った自然が作り出した神聖な場所を崇めました。

熊野の神々は、神代にまず神倉山のゴトビキ岩に降臨し、景行天皇58年に現在の社地に新宮を建てました。当初は2つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代初めに12の神殿が完成しました。神倉山は、悠久の昔から人々に崇められてきた場所で、初期には自然信仰の中心地でした。十月の例大祭では、杉ノ仮宮が新宮の由来である「お旅所」に建てられ、古式に則った神事が行われます。

熊野信仰は、自然信仰を原点として神社神道へ展開し、仏教が伝わると神仏習合が進み、「熊野権現信仰」として全国に広まりました。熊野は過去・現在・未来を救済する霊場として広く受け入れられ、すべての人々に救いを与える神仏として崇敬されました。熊野詣では、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々の命の道となり、熊野古道を辿り着いた人々は感動の涙で心が洗われ、本来の姿を取り戻す旅となりました。

難行苦行の果てにあるものは、人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護であり、熊野速玉大社が「甦りの地」と呼ばれる所以です。この地は、人々が生まれた時に持っていた純真な心と姿を取り戻す試練の旅でもあり、命がけの旅で新たな生きる力を受け取りに来る場所となっています。

 

熊野速玉大社公式ホームページ

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